気配りをし、人生を愛し、会社を愛し、家族を愛し、人々を愛し、人生を楽しむことを愛した息子でした。
息子とともにこの世界で過ごせた48年間は、何にも代えられない、貴重な歳月です。私たち両親はこれからもずっと息子を愛し続けていくでしょう。最愛のパパを失った孫と、最愛の夫を失った息子の妻のこと、レジナのことについて、少しでも息子に喜んでもらえるように、息子の遺志をつぎ、私らもまた光の剣をふるって、このけわしい人生をできるかぎり切り開いていくつもりです。それとともに、われわれの執着で息子をしばって息子を迷わせてはいけないと思っています。
長年、息子と親しく、息子にアドバイスもしてくれてきた方が、「私よりずっと年下なのに、息子さんからいろいろ学ばせてもらいました。決断力のある、とてもすぐれた経営者だった」と言ってくださっています。あまりにも短いが充実した人生を生き抜いたのですね。
光の剣をふるって生きた息子よ、ありがとうございます。
肉体をもつ息子のいない、これからの人生を生きることになるとは、私たち夫婦にとって 思いもよらないことです。「息子はもういないんだ」と、くりかえし確認しています。
再婚してから5年間、年齢差を感じさせないほど、夫婦仲は睦まじく、1人息子に恵まれ、家族を愛し、息子は家庭的にもとても幸せでした。だから、私たち夫婦もとても幸せでした。また、息子は自分が創業した会社をとても愛していました。
目先の苦労はあっても、長年の経営体験が、いよいよ花開き、飛躍できるときが近づきつつあるように思っていました。
病気になり、「天国か地獄か」の分岐点に立ち、息子を含む、われわれみんなは
地獄も体験することになりました。私にとって生涯最悪の体験です。「なぜなのか」、その不条理を理解できません。いつまで経っても、息子が亡くなったことを受け入れにくいということを受け入れるほかありません。
ついに食事を食べることのできなかった、半年にわたる、壮烈なガンとの闘いでした。ことに、転院後の3週間は壮絶な闘いでした。さまざまな不安やつらさに苦しんだでしょうが、ついに、痛みもつらさも一と言も訴えなかったのです。
愛する家族のいる家に息子はとても帰りたがっていました。その家にどうも息子は帰ってきたようなのです。同じマンションで親しくさせていただいている方の妹さん(Tさん)が霊能があり、Tさんのところに息子は何度か訪れており、そのメッセージをいくつか知らせていただきました。
朝、息子のマンションの住居を出て、エレベータに乗るとき、息子が一緒に乗ってくれたのを感じました。何も話さないままでしたし、玄関で「やあ」という感じで別れました。息子は会社のほうへ行ったのかと思いました。人は錯覚というかもしれません。それでも、からだはもたなくても、息子が私とともに存在しているという実感は、私の喪失感を少しうめてくれる大事な体験でした。
そのあと、「コーリング」というアメリカの映画のことを思い出しました。以前、息子のところで見せてもらった映画です。息子は自分が気に入った映画を、ときどき見せてくれていたのです。その映画は、妊娠中の女医が秘境の調査に参加し、事故で亡くなり、故国の夫のところに不思議な出来事がつぎつぎあらわれ、夫はその秘境に導かれるようにして旅立ち、原住民のところで育てられているわが子である、女子の赤ん坊にめぐり合うとともに、死んだ妻が存在していて夫に通信してきたという物語でした。それは実話と思える迫力でぐいぐい惹きつけるものでした。そのコーリング(呼びかけ)が息子からも発せられているのではないでしょうか。
いま、私が存在している、この世界は多次元世界なのです。物質界、メンタル界、ユーザル界などの多次元世界であり、意識の働きによって、それぞれの次元界に存在できるでしょう。
物質界は、もっとも低い次元界です。心は物質の強い影響を受けて、世界は物質一元と思い込みました。
そのため、唯物科学を絶対視し、唯物医学に支配され、精神面を否定し、モノ信仰が巾をきかせてきたのです。
たとえば、古代エジプトのピラミッドをいまの科学技術で作ることができません。現代の世界は精神文明が退化したということでしょう。
花屋敷の家を息子はとても気に入っていましたが、私の経済的な失敗で処分するこ
とになりました。それでも、息子はその不満を私に言うことはなかったのです。むしろ、「両親は経済的に大変な状況のときも、その影響を自分が受けないように配慮してくれた」と、ほかの人に言ってくれていたのです。
ガンの疑いで入院したとき、いままで逆境をのり越えてきたように、「回復のためにどんな治療を受けるか、自分ら夫婦で決めていこうとしていました。私たち両親には心配をかけたくないという、強い気持ちと、潜在意識に解消されていない、かつての「両親に干渉されたくない」という気持ちがありました。
私ら夫婦にとっては、これはいのちにかかわる問題ですから、息子の意向を尊重しながらも、少しでも免疫力を高めることの大事さに目を向け、できそうな代替療法を取り入れてもらおうとしましたが、ムリ押しになることを懸念し、結果的に悔いを残すことになりました。
息子は入院のときは、すでに腸閉塞になり、食事が食べられず、腹水がたまって
いました。内視鏡も腸を通らなかったのです。ガンの疑いが強いという診断でした。お医者さんははっきり言ってくれなかったのですが、すでに末期の深刻な状態だったのです。
ゆるい抗ガン剤が使われたものの、私の妻がすすめたアガリスクも飲んでくれ、
また、私も妻も祈りつづけ、ヒューレン博士の4つの言葉も唱えつづけ、1週間で腹水がひきました。食べられないままでしたが、「きっとなおる」と思ったのです。
結果的には、息子は手術と抗ガン剤療法で亡くなりました。病院では、権威づけ
られた、抗ガン剤療法、手術、放射線療法という三大療法しかないのです。
息子は「抗ガン剤療法で食べられるようになる」という主治医の言葉、つまり
現代医療を信じていました。あとで知りましたが、息子は主治医と話し合って、何枚かの治療計画書を書いていました。息子は真剣にガンをなおそうとしていたのです。
だんだん私に分かってきたのは、抗ガン剤療法で半数は効果があります。そのうち
の半数が再発し、抗ガン剤の効果は低下します。息子は残りの半数だったのです。とすれば、別の療法が必要なはずですが、やはり抗ガン剤療法が行われ、不死のガン細胞が活発になり免疫力を低下させます。
安保徹医博や岡本宏医博は「三大療法は危険であり、免疫力を高める療法が必要である」と断言しています。
現代医学は物質医学であり、人体を物質的な臓器の集まりと見ており、生命の眼目である免疫力を高めるということが欠落しています。
第1回のバイパス手術で、結局手術してもまたつまりそうだからということで、何もしないままでした。息子は「手術後、食べられる」と思っていましたから、「なぜか」と聞きたがりました。
あと講釈ですが、まだ体力がありましたから、食べられるようになれば、体力がつき、免疫力が高まり、ガンにうち克てたのではないか、と悔やまれます。
抗ガン剤療法を息子は承諾しており、私は主治医の説明のときに、前に使用した抗ガン剤の使用を希望したのですが、「もっと強い抗ガン剤でないと効果がない」と反論され、岡本医博のe-クリニックのセカンドオピニオンも「抗ガン剤療法もやむをえない」とあるだけで、免疫力の低下を防ぐ手だてが書かれておらず、抗ガン剤療法に入りました。
抗ガン剤療法のときはむかつきがあり、しんどくなります。アガリスクも飲むとむかつくので、飲まなくなりました。療法を重ねるが、効果はあらわれず、さらに別の抗ガンも混ぜて療法をつづける予定だったそうです。少し気分がよいと、散歩したりしてからだを動かすようにしていましたが、体調が悪化し、飲めていた水も飲めなくなり、ずっと鼻から管を通しておなかにたまっているものを排泄するようになりました。そんな状態なのに、息子は沖縄旅行に行こうとし、ホテルの予約をしていました。沖縄がとても好きでした。沖縄の紺碧の海が好きでした。潜水したこともあります。かって私たち両親も沖縄旅行に招待されたことがあります。しかし、旅行は結局あきらめました。
「プラス、マイナス五分五分だが、食べられるようにしたい」という主治医に言葉に、息子は体力がとても低下していたのに、承諾しました。それはもう決まったことであり、私はとめることができませんでした。
手術によりガンが全身に転移し、全身の内臓器官の働きが低下しました。腹水がたまり、呼吸もしにくくなり、腎臓の働きも悪くなり、排尿しにくくなり、十二指腸潰瘍も分かり、つまることを恐れて、栄養剤も半分にしたために、げっそりやせ、目だけ大きくなるように相が変わりました。
食べるどころではありません、水分も飲めないままです。1日を争うような容態になったことは素人の私にも分かります。
主治医に「食べられるようになるのですか」と聞くと、「それは分かりません」というだけです。主治医は、1週間の休みをとったということで、病院から姿が消えました。その直前、丸山ワクチンの注射を頼みましたが断られました。
最後の手段としての丸山ワクチンを打ってもらえる病院を探し、個人病院である、O病院を紹介されました。O院長はホンネで話せるお医者さんでした。「私も三大療法だけでガンをなおせないと思っており、いろんな代替療法を試みているが、アメリカの濃縮ビタミンC療法がとてもよいと思い、薬も買っている。日本でもこの療法をしている医師の本を出版され、これを読んでほしい。まだ自分には体験がないが、よければこの療法はどうだろうか。ただ、丸山ワクチンと併用はできない」とのことでした。
危篤状態の息子に話しました。苦しいなかで、息子は私の言葉に耳を傾け、転院を決断してくれました。このときに、息子の潜在意識に残っていたしばりがほぐれ、私たちは完全な信頼のきずなにいたったのです。
O先生に献身的な治療をしていただきました。転院して間もなく、息子は少し元気になり、水が飲めるようになり、はじめてにんじんジュースを「おいしい」と飲みました。
しかし、それから2日ほどして十二指腸潰瘍の大出血があり、出血がとまらず、昏睡状態になりました。呼吸も困難で、肺に水が溜まっており、酸素吸入するようになりました。
腹部下部の腹水がひいてきました。ビタミンC療法の効果がやっと出てきたのではないでしょうか。しかし、手遅れ状態になって転院したのです。息子は「何とか食べられるようになろう」、「元気になろう」としてきたのです。でも、からだがもちませんでした。最期の日、なぜか、人工肛門からかなりの量の排便がありました。しかし、3回、大出血があり、亡くなったのです。
2回目の手術前に転院していれば、息子は助かったのではないか、ということが痛恨事です。
飲み屋で知り合った人に、「うちの会社を受けてみないか」と誘われ、株式会社
CECに入社しました。親子関係の好転のためか、息子の親離れは早く、このころには自分の人生の方向づけはすべて自分で決めており、あとになって、「こうすることに決めた」などと、報告してくれる程度になりました。7年ほど勤めて、同じ会社の人と3人で独立して会社をつくりました。しかし、間もなくバブル崩壊の不況に出会い、2人は他の会社の正社員となる話をつけ、自分1人になりました。
そして、ただ1人で新しい会社をつくり、心血を注いで育ててきたのが、株式会
社レジナです。いいときも、悪いときも含めて、約18年間、経営してきました。新しいソフトの業界で、中小企業ながら、パイオニア的に道を開いてきました。
中小企業の経営者は完全な自己責任で経営することになり、孤独な決断をしつづけることになります。そのことによって精神的に鍛えられます。息子は何度も逆境に出会い、そのなかで真我のエネルギーである光の剣をふるって乗り越えることを体得してきたのです。いっさい泣き言を言うことはなかったのです。さっそうとしていました。技術力で、大企業との受注競争で成功したことも何度もあったようです。
人間関係をとても大事にしてきましたから、すばらしい人間関係に恵まれてきました。それが仕事面でも、無形の資産になりました。社員の人も、1人1人を大事にしていました。グループワーク的な、ヨコ型の会社組織でした。社員の人からも、「社長」ではなく、「前川さん」と呼ばれていましたし、仕事の席も社員の人と並んだ席です。
仕事は多くの人に支えられることで成り立っていくのです。長く一匹狼的な生き方をしてきた私は、この点でも息子に及ばないと思っています。
私が長年の遍歴をして、真我の実感を少しもてるようになり、やっとカウンセリングに戻る気になり、自宅でカウンセリング・センターをはじめました。経済面の協力のために、妻は喫茶店をはじめましたが、大赤字になりました。
息子は大学入試の受験勉強中でしたが、バーテンの仕事をして、自分から店を手伝ってくれたのです。お客さんの評判がよく、スキーにも連れて行ってもらったりしていました。また、パートの女の子に、妻が注意するよりも、あまり年齢が違わないものの、息子が言ったほうが効果的でした。同じ1人っ子でも、私と違って、息子はとても人付き合いが上手だと感じていました。こづかいを渡すゆとりがなく、給料を渡し、それでやりくりしていました。まともに勉強できない状態であり、一次の国立大学に合格できなかったのですが、「浪人はいや」と、京都産業大学に入学しました。
仕事のあいまに大学に行くという状態でしたが、大学でできた友人のところに泊めてもらったり、ノートを借りたりして、卒業しました。
息子も私も「人に支配されることはとてもいや」ということでは共通しています。だから、「人を支配しない」ということにつながるのですが、私の場合は、親としては息子のことでは欲が出て、期待に合わせてくれることを求めていたのです。
親は子どもとの信頼関係づくりにつまずくのが通常ではないでしょうか。その一つの理由は、子どもを親の期待でしばる執着愛(愛ではない)です。もう一つは、親がほかの関心にしばられており(たとえば、自分のしんどさで精一杯)、子どもに関心を向けられず、放任的になることです。
問題は、親がそのつまずきに気づき、無条件に子どもを受け入れられるように生き方を変えられるかどうかが親にテーマであり、そのことによって生きる核になる愛を親は学ぶことができ、子どもはその愛を実感できることで、自分も愛をあらわせるようになります。